云外人间自悠游

濃霧に灯篭を翳して

食べる、飲む

カンパンに入ってる、
砂糖と水飴だけの純粋なキャンディーが好き。



売ってないかなあ…




酸味料、甘味料、着色料、増粘剤、

いらない。


味覚を騙そうとするな。


飴に関しては純粋なものがいい。せめて飴だけは





“美味”を感じられる
ものが少なすぎると思うのは、

私が敏感だからなのか?



繰り返し食べたくなるジャンキーなフードも良いけど、

やみつきになるほど
私が食欲を維持し続けることができるのか問題。


『なんだ、またこの刺激か・・』


心の中で思ってしまいそう。

そう言って食べ続ける。



これは幸せか??





旨みはあっても、“美味”じゃない食べ物は、

結局のところ興味が薄れてしまう。


その『瞬間だけ』、刹那的快楽に満たされていれば良いと、ついつい手を伸ばしてしまう。


麻薬のように、
いくら食べても満たされない。


それは月の魔力だ。






私は食欲に関心がない。








『飲欲』ならある。


“好き”と感じたものや、人は、あらゆるものに
食らいついて、

飲み込んでしまいたいと思う。




飲み干して、


お腹に落として、




私の一部にしたい。





愛したい。





これは
「咀嚼」ではなく


『嚥下』にキーがあるのだろう。


味わうより先に、腑に落とす感覚を大事にする。



美味しいか不味いかは考えないし、

丸飲みすることで相手を受け容れた気持ちになるのだ。




イメージは蛇。

顎を外して大きくひらき、あぐ、あぐ、あぐと、獲物を飲み込んでいく。



愛したい気持ち。







自分のことを蛇だと思う。


卵食の蛇は、丸飲みした卵を喉元で器用に潰し、
殻だけ外に吐き出すらしい。


私の


『愛したい』は

“飲みたい”

に近い。

愛せるか

やっぱりうちで一人でいると、

心が乾いていくような気がする。



好きな人に対しても、


こうありたいっていう自分像のとの間に


解離があるのも


家だとほんとうの自分でいられないからだ。



だから自分がほんとうに好きなのかわからなくなるし、

心が空っぽで虚しくなる。



自分がほんとうに人を愛せるのかわからないし、



その

根源的な虚しさにつながっている体験があって



寂しさを紛らわすために

ぬいぐるみを家族にしてた時期が

昔はあったんだけど、


いつしか心の中にぬいぐるみたちがいなくなって、


見てるだけで悲しくなるから



捨てちゃったんだ。………







それは、


とても、、虚しい……………………







でもまた

ぬいぐるみを家族にしたい。


一心同体のパートナーのような、


たった一人だけでいいんだ。

良い御縁がほしい……







でも、……

ぬいぐるみさえも


モノとしてしか映らなくなってしまった私は


ぬいぐるみを

愛せなくなった私は



人をほんとうの意味で愛せるのかな。



この人が

ほんとうに好きなのか



わからなくなっちゃったんだ。。



すごく変なきもち。



……

心の内が乾いているのか、、

Loveを探してる。



……

自分の味方であることもできなかった。


周りに毒されて、自傷したくなった



そんな私だから……



……

自分も信じられないし、

周りも到底信じられない。


……

期待しない方が楽だし、

裏切られたと思って人を恨みたくない。



いつも一人だという意識がある。






ぬいぐるみたちと遊んでいたあの時から、



私は何も変わってない…………

ぬりえがたのしい

昔から、絵を描くということに苦手感がある。



それは単純に、

道のりが長いことへの倦厭と心理的プレッシャーで

自分には出来ないと思い続けているからだ。




しかし暫く以前から、

パーツを提供してくださるイラストレーターさんの力をお借りして

キャラクター生成をする遊びにハマるようになって

『嗚呼、私には実のところ潜在的に絵への欲求があるんだな』と感じるようになって久しい。





それが今回、

flower mandalasという

アメリカのシンシア・エマリーさんが手掛けた
心を整える、花々のマンダラぬりえに

出会うことになって以来、少しも苦痛に感じることなく
ぬりえを続けることができているのだ。






乙女チックなファンタジー世界のぬりえや
写実的な植物のぬりえは

本屋さんに多数並べられているけど




植物の曲線の美しさや、
マンダラの幾何学的直線模様の兼ね合いは

なかなか見るものではないと思う。



私は一目見て、

その美しさと、
万華鏡のような世界にひとめぼれした。


何より、
私は植物が大好きだ。




生来もつ私の感性と
よっぽど相性が良かったらしく即刻お気に入り指定で

本には少しも色を乗せず、
コピー機を使って繰り返し色を塗る予定だ。




今日もちょうど一枚塗り終えたところで
独特の達成感を味わっている。


ぬりえをしている時の私は、

幸せオーラが内側から
あふれ出しているようでたまらなくなる。


何より、やってる最中の自分は
生命力によってハツラツとした表情をうかべている。



趣味をもつって良いなあ・・・

ひとりごと

私がえっちでしたいのは、プレイじゃないって気付いた。尊び、愛し、慈しむえっち

それがすべて。…


それができる人は限られてる。…だから、その人が、たいせつだと思う。


それは、ふだんのコミュニケーションの、延長上にある。思いを、体で表現する。私にできること




過去の自傷セックスは経験に入れない。あれは、マイナスだった。


だから、性欲があっても、慈しむ行為ができそうな人だけを選び、ひとつひとつを丁寧にやっていきたいと思う。呼吸や、指先の動きひとつ取っても、纏う空気が変わる…。


クオリティを重視。。クリエイティビィが触発される。。




おとめ座の月☽だったんだ …なるほど(*´꒳`∩)


アートのようなえっち。というと、うお座みたいだな。ちょうど逆月(太陽)


牡羊座の太陽とうお座の逆月で、ぴゅあぴゅあなえっちでした。

つながってる

たゆたえに俯せる眦(まなじり)春日絵て
明日夜のこして火鳥(ひとり)烟らん




振り返り書き物をする時間もない
毎日を生きてる。

日が昇る朝方の薄明かりの廊下を、音を立てずに
しずしず歩く
そんな時間が好きだ。




私は心情描写をしない。
というより、どんなものなのか分からない………

見るものすべてが私の精神だと感じるから


鬱々とした天気の、空に浮かぶ雲雲
数メートル先も見えない深い濃霧を進む時



外の世界と内側はつながってる。


だからわざわざ、
言い表さなくてもいいんじゃないかと

そう思うだけだ。

体の感覚

これまで、
ブログらしいブログを書いた経験がないので
それっぽい文章がどんなものなのかわからない。

何を書こうか??




最近わかったことは、

いつも薄らぼんやりと意識が離れている状態
そういう時は“解離してる”というらしい。

ここにいるけど、何処にもいない。


例えば、
神経質な体をゆさぶるショックが起こると
筋肉がこわばって緊張で伸びきった状態になる。

そのままロックされて動けなくなることを
“凍りつき”というらしい。


急に意見を求められて《ピキーン》と固まったときとか


相手の反応が気になりすぎて発作が起こると、
解離と同時に硬直して、体の感覚が遠ざかる。

トラウマの重症度によって
固まっている深部の感覚は変わっていく。



近頃は自分の反応を窺い知る余裕ができるほど
良くなってきた自覚はある。


昔は何もかもが真っ暗で
色も音も光も存在しない最奥の世界で暮らしてた。
ガッチリと固まった心は、本当に重石のようだった。